DSC_2211

大西将太郎(おおにし・しょうたろう)

大西将太郎(おおにし・しょうたろう)

生年月日:1978年11月18日。大阪府出身

日本代表キャップ数:33

RWC出場歴:2007

ポジション:SO/CTB

 

▼ラグビー略歴:布施ラグビースクール(小3~)→啓光学園中学、高校→同志社大学→ワールド→ヤマハ発動機→近鉄→豊田自動織機(3年目)。今季より、コーチ兼任プレーヤ

大西将太郎選手といえば、大阪出身で高校、大学では関西のラグビーファンを熱狂させ、その後は日本代表でも熱いプレーでファンの支持を得てきた人気選手。日本代表としては、2007年RWCのカナダ代表戦の同点ゴールを思い出す人が多いでしょう。平浩二選手のトライで2点差となった試合集終了間際、右中間からのいわゆる「入れごろ、外しごろ」のプレースキックを決め、1995年大会から続くRWCでの連敗記録をストップさせたのです。両手で天を指差したとき、大西選手は何を思ったのか。あの日を振り返ります。

 

 

 

 

2007年大会は夢のような時間だった

日本代表はひとつになっていた

 

 RWC2007で一番思い出に残っているのは、カナダ戦の最後の同点ゴールですか? と、よく質問されます。でも、実は違います。

 第2戦のフィジー戦でルーク・トンプソンが最初にトライを獲ったとき、選手みんながルークに寄って行った。そうしようなんて誰も言っていなかったのに自然と全員がひとつになった。チームのまとまりを証明するすごく印象深いシーンです。2007年の大会は、僕の人生の中で夢のような1か月でした。

 自分が出場していないRWCで思い出すのは、高校生のときにテレビで見た1995年の大会です。日本代表とアイルランド代表の試合では、平尾誠二さんがトライしたのをよく覚えています。それがかっこ良くて、そのサインプレーはよく真似したし、この時初めてRWCに出てみたいと思いました。

 初めて日本代表入りしたのは、2000年です。テストマッチデビューは、2000年5月20日の対フィジー戦ですが、このときは交代出場で5分ほどしかプレーしていません。

 初めて先発したのは、その1週間後のアメリカ代表戦でした。グラウンドが小学生の頃から自転車で通っていた花園ラグビー場で、「やってやろう」という気持ちになりましたね。

 しかし、2003年のRWCは日本代表の大会登録メンバーに残ることができませんでした。本大会で同世代の栗原徹や木曽一が活躍しているのを見て、あの場所に立ちたいという思いが一層強くなりました。その思いを叶えるためだけに、以降の4年間はラグビーに取り組んだ気がします。

 

 

 

カーワンHCにメンバー入りを告げられ

涙が出るほど嬉しかった中標津合宿

 

 2007年大会は9月、10月にフランスで行われました。僕はその時28歳で、経験も積み、体が一番動く時期でした。

 7月に北海道の中標津で日本代表の強化合宿があり、その最終日にジョン・カーワンヘッドコーチ(2007~2011)からRWCメンバーに残るかどうかの個人面談がありました。菊谷崇選手や廣瀬俊朗選手など、そこで悔しい思いをした選手もたくさんいます。僕も緊張しましたが、「メンバーに入れるぞ」と言われたときは涙が出そうでしたね。

 そのとき、本大会のプール戦(一次リーグ)で対戦が決まっていたフィジー戦の先発メンバーだと言われました。2007年大会は、初戦のオーストラリア戦と第2戦のフィジー戦でメンバーを完全に分け、フィジー戦に必勝を期す「2チーム制」だったからです。それからの練習は、フィジーをターゲットにしたものになりました。

 オーストラリア戦に出ることになったメンバーは複雑な気持ちだったと思うし、大会直前にWTB大畑大介さん(当時、神戸製鋼)、S0安藤栄次(当時、NEC)が怪我をして出場を断念するなど、悔しい思いをした人たちも多かった。それを目の当たりにして、僕らがやらなくちゃいけないという気持ちが強くなりました。

 フィジー戦は、9月12日、ラグビーマッド地帯のトゥールーズで行われました。最終スコアは、31-35で惜敗したのですが、専門職のSHが吉田朋生、矢富勇毅と2人続けて怪我をするという想定外のことが起こりました。終盤にペースアップすべきところで、SHがいなくなり、その後は、ブライス・ロビンスと僕でSHをやりました。最後は足が動かなくなりましたね。

 個人的に印象深いのは、この試合の最初にフィジーCTBランベニにタックルして、ノックオンを誘った時のことです。ものすごい衝撃で頭がクラクラしたのですが、これがRWCなのだと目が覚めた瞬間でした。

 観客は満員の約3万5000人。試合中も大声援があり、試合後はスタンディングオベーション。外的要素がRWCを作るのだと思い知らされました。

 オーストラリア、フィジー、ウェールズに敗れたあと、カナダと戦ったのですが、僕が遠藤の先制トライ後のゴールを決めていれば勝っていたし、「勝てなかった」という思いが強いです。

 最後の同点キックに関しては足に当てただけです。日本にいる人たちも含めて、みんなの気持ちで決めさせてもらえた。ボールをセットするときに、いろんなことが頭をよぎりました。でも、蹴るときは無心になることができました。

 天に指を突き上げたのは、日本にいる方も含め、応援してくれた人への感謝の気持ちでした。そして、同志社大学時代の恩師で、この年に亡くなった岡仁詩先生、僕が中学の時に亡くなった父への報告でもありました。

 夢のような時が過ぎ、改めてラグビーの神様に感謝しました。大きな怪我もなくRWCに出られたのですから。

 大畑大介さんは、この年の初めにアキレス腱を切り、RWC直前に復帰できたのに、今度は逆のアキレス腱を切った。大介さんの欠場は逆にチームをひとつにしました。大介さんの過酷なリハビリをみんな見ていたし、その思いを背負って戦ったと思います。

 大会直前のイタリア合宿で怪我をしたとき、大介さんはしばらく部屋にこもりました。出てきた時、泣いていたのだとすぐに分かりました。「俺、行けないから、これ、持って行ってくれ」と腕時計を託されました。今でもその時計は大切に持っています。

 

 

日本開催のRWCは、ラグビーのみならず

スポーツ文化発展のきっかけにしてほしい

 

 

 2019年については、一人でも多くの人にRWCの雰囲気を味わってほしいです。選手だけではなく、国民全員がそういう雰囲気になって、スポーツは、これほどにも国民をひとつにするものなのだということを味わってもらえたら、それが文化となり、これからの日本のスポーツ界は発展していくのではないかと思います。ラグビーが発展するだけの大会ではなく、スポーツ発展のきっかけになってほしいのです。

 2019年大会には、できれば当事者として関わりたいですが、ボランティアでもなんでもいいのでお手伝いしたい。コーチをしていれば、代表の選手を送り込みたいし、もし現役であれば、RWCの日本代表を目指し続けたいです。

 桜のジャージーは常に僕の中のトップです。何ものにも代えがたく、着ていて一番誇りに思えるもの。そんな重みを伝えて行きたいです。この春、ニュージーランドへラグビーの勉強に行きました。オールブラックスのヘッドコーチとしてRWC2011の優勝を成し遂げたグラハム・ヘンリーさんの話を聞く機会がありました。

 オールブラックスのジャージーには、自分が着たとき、前に着た人よりも大きなものにして次につなぐという文化があるそうです。次に着る選手がさらにいいパフォーマンスをし、価値を上げるのです。ウィニングカルチャーというものを感じました。

 ヘンリーさんも2007年大会の準々決勝ではフランスに敗れ、悔しい思いをしています。「あの負けがあったから、2011年の優勝がある」とも話していました。

 日本にもRWCを経験した人がたくさんいます。RWCを経験した人でないとできないことがあるはずです。そういう人達がひとつになって、2019年に向かっていくべきだと思っています。

 

TEXT by KOICHI MURAKAMI