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今泉清(いまいずみ・きよし)

今泉清(いまいずみ・きよし)

生年月日:1967年9月13日。大分県出身

日本代表キャップ数:8

RWC出場歴:1995

ポジション:FB

 

▼ラグビー略歴:大分舞鶴高校→早稲田大学→オークランド・ユニバーシティクラブ(NZ)→サントリー→サントリーフーズ。早稲田大学ラグビー部コーチ、サントリーフーズ・ラグビー部ヘッドコーチを務め、早稲田大学大学院公共経営研究科で学ぶなどして、現在は、パフォーマンスコンサルタント

今泉清さんといえば、プレースキックの助走をはかる際、観客席から「1、2、3、4、5!」と掛け声がかかるシーンを思い浮かべるオールドファンの方が多いでしょう。大きなストライドでフィールドを縦横無尽に走りまわり、早稲田大学、サントリーで活躍しました。その自由奔放さゆえか、日本代表キャップ数は少なく、RWCも1995年のみに参加となっていますが、ユニークな考え方、言動でも知られる今泉さんが、RWCで感じたこと、今後の活動について語ります。

 

 

いまも涙が出る大学時代の思い出

「仲間のために」がラグビー最大の魅力

 

 ラグビーの魅力は何か、と問われれば、僕は「仲間のために戦う」ということだと思っています。早稲田大学1年生の頃、運よくレギュラーになれてプレースキックも任されました。毎日、2時間、3時間とプレースキックの練習をしました。なぜ、それほど長い時間毎日蹴っていたかといえば、試合に出ない4年生がボール拾いをしてくれたからです。黙々と拾って蹴り返してくれる。「頼むぞ」と言われている気がしました。

 こんなエピソードもあります。1年生のシーズン最後の試合となった1月15日の日本選手権前日のことです。1月14日の練習は、その年の4年生からすれば大学生活最後の練習でした。僕は1年生だったので、練習後、後片づけをしていました。すると、4年生の香取鉄平さんという人がグラウンドに戻ってきて、タックル練習を始めたのです。香取さんは試合のメンバーではありませんでした。

 何か声を出しながらやっているので、よく聞いてみると、「このタックルは、1番永田のため、このタックルは2番森島のため」と、試合に出るメンバーの名前を一人ずつ言いながらタックルしていたのです。それを見ていた一年生はみんな涙を流していました。

 翌日の日本選手権では、4年生のFB加藤進一郎さんが右コーナーにトライし、僕がゴールを狙うシーンがありました。その時、「頼むぞ」という4年生の声が聞こえました。僕はその試合で一本も外しませんでした。4年生を勝って送り出してあげたいという気持ちが強かった。それがいつも以上に集中力を高めた気がします。

 高校の時も仲間のために戦った思い出があります。自分の利益のためというよりも、仲間を悲しませたくない、喜びを分かち合いたいという気持ちになると僕はスイッチが入るのです。大学卒業後に留学したNZでは、試合中に乱闘があり、僕はそれを止めに入りました。すると、チームメイトに言われました。「キヨシ、なんで仲間を止めたんだ。仲間は守れ。止めるなら相手だ」と。仲間のために戦う。それがラグビーの魅力だと思っています。

 

 

印象的だったRWC1987の準決勝

インスパイアされたFBブランコの動き

 

 初めてRWCを見たのは、1987年の第1回大会です。準決勝のオーストラリア対フランスの戦いは印象的でした。フランスが、FBセルジュ・ブランコの劇的トライで勝った試合です。当時、僕は早稲田大学の1年生で、東伏見の寮のテレビで見ていました。消灯時間が過ぎても、RWCだけは見て良いということになっていたのです。

 あの頃、海外のラグビーが見られるのはNHKだけで、ファイブネーションズ(欧州五カ国対抗)も見ていました。僕のFBとしての発想の基本はセルジュ・ブランコです。ある試合で彼が自陣インゴールで後ろを向いて走って相手選手を振り切り、そのままつないでトライするプレーがありました。世界のラグビーに目を向け始めたのは、こういったプレーを見たからです。日本で言われている常識的なことが世界のラグビーでは違っていることが多かったのです。

 その後、僕が早明戦でキックを蹴らずにカウンターアタックを仕掛け、ライン参加から横に走って相手を振り切るようなプレーをしたのも、ブランコにインスパイアされたからです。そして、大学卒業後、NZへ留学しました。NZへ行ったのは早稲田大学時代にNZからコーチに来てくださったグラハム・ヘンリーさん(後のオールブラックス監督)からもらった手紙に、「君は、世界を目指しなさい」と書いてあったのがきっかけでした。

 ヘンリーさんの紹介で、オークランド・ユニバーシティクラブでプレーしました。実は帰国する年には、オークランド州B代表に選出されていたのですが、僕は日本代表でRWCに出たいと思っていました。帰国するとき、チームメイトには「なぜ帰るんだ」とずいぶん言われました。オークランド代表になるチャンスをなぜ捨てるのか、ということだったと思います。

 当時のオークランド州代表は、オールブラックスの選手が多く、キャプテンを務めたショーン・フィッツパトリックもいました。

 1995年のRWCには日本代表の一員として参加し、彼らと再会することができました。フィッツパトリックが試合前、日本のロッカールームまで来てくれました。彼はキャプテンでしたがこの試合は若手中心のメンバーだったので出場しませんでした。僕の顔を見ると、「キヨシ、出るんだろう?」と聞いてくる。「いや、リザーブなんだ」と返事すると、眉間にしわを寄せて、「なぜお前が出ないんだ。日本代表を圧倒するようにメンバーに言って、お前が出てこられるようにしてやるよ」と言ってくれたのです。

 今だから言える話ですが、試合内容は彼の言う通りになりました。そして終盤に僕の出場チャンスが巡ってきたのですが、なぜか3分ほど早く試合が終わってしまったのです。

 出たかったです。歯がゆかったですから。あの大会の日本代表は、世界と戦うチームになっていませんでした。練習時間も少なく、午前中の練習が終われば首脳陣も選手も遊びに行く。意識が低すぎたのです。NZ戦の大敗を機に日本ラグビーの人気は低下したと思いますし、この大会の反省をしっかりしなかったことが、その後の低迷を招いたとも思います。その頃に比べると、現在の日本代表の取り組みは雲泥の差で羨ましいほどです。

 しかし、1995年大会では、NZや南アフリカの選手達の試合に対する心構え、表情などを見て、学ぶことも多かったです。

 日々の過ごし方の大切さも痛感しました。「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」という禅の教えがあります。日々の生活の中に禅の修行はある、起きてから寝るまでのすべての行動や立ち居振る舞いに気を配り、意識することが大切であるという言葉です。大学選手権6連覇の帝京大学のクラブハウスを見学したことがあります。塵一つ落ちていませんでした。こうした面でも他チームをリードしているわけです。グラウンド外のことが大切なのだということも、RWCで学んだことでした。

 

 

国際スポーツ大会が次々に日本にやってくる

スポーツが文化として根付くきっかけに

 

 2019年のRWC、2020年のオリンピック・パラリンピックなど、今後、次々に大きな国際スポーツ大会が日本にやってきます。これが、スポーツを文化としてとらえるきっかけになってもらいたいです。

 そのためには仕掛けが必要だし、私もそこで何ができるかを考えています。昨年、経済産業省が出した数字で、14歳以下の男女が昨年は2,400万人、それが10年後には半分、40年後には120万人から180万人ほどになるという。今のまま行けばという予測ですが、国家存亡の危機なのです。

 スポーツを考えても、野球やサッカーなどメジャー競技に人材が青田買いされ、マイナー競技をする人間がいなくなるでしょう。不毛な人材獲得競争が起こります。私が考えているのは、不毛な争いはやめ、総合スポーツクラブを作り、一人がたくさんのスポーツをできるようにすることです。そして、それぞれのスポーツ団体が子供達に選んでもらえる魅力ある競技になるように切磋琢磨すべきなのです。指導者もしっかりしたコーチングスキルを身につけた人が教えるような仕組みを作りたい。いま使われていない学校が全国に2400あります。そうした施設を有効活用し、スポーツというフィルターを通して社会の仕組みを変えたいのです。その活動を少しずつ始めています。

 日本ではスポーツが文化として根付いていません。2019年のRWCは、文化として根付くきっかけにしなければいけないと考えています。

 

TEXT by KOICHI MURAKAMI