中山光行

中山光行(なかやま・みつゆき)

生年月日:1966年9月27日。京都府出身

日本代表キャップ数:0

RWC帯同歴:1999

役職:テクニカル(分析)、現役時代のポジションはWTB

 

▼ラグビー略歴:京都市立伏見工業高校→神戸製鋼(1985年~1992年)。現在は神鋼ラグビー支援室兼秘書広報部勤務

 いまや試合を数字で分析するのは当たり前になっています。タックル数、ハンドリングエラー数、さまざまな試合の傾向がカウントされ、プレーの特徴は一目瞭然です。しかし、1990年代、それは目新しいことでした。中山光行さんは、神戸製鋼、日本代表でテクニカルスタッフのパイオニアになった人です。中山さんにとってのRWCを振り返ってもらいました。

 

日本代表が新設したテクニカル部門

1999年大会に帯同し、プレーの特徴を分析

 

 私はテクニカル(分析)として1999年のRWCに参加しました。当時のテクニカルは私を含めて4人。朽木英次さん(日本代表キャップ30、元トヨタ自動車監督)、中島修二さん(同11、元日本代表コーチ)、宮尾正彦(現NECコーチ)でした。

 テクニカルは、高校、会社の先輩である平尾誠二さんがジャパンの監督になり、1997年に新設した部門です。

 仕事内容は大きく分けて2つありました。

 1つは「対戦チームを調べ上げる」

 2つ目は「自チームの分析」

 1に関しては例えばどんなサインプレーを使うのか、選手個々の動きなどをチェックする。2はプレーのクオリティー、試合開始後何分でPKが増えるか、などを調査します。

 今では普通になったタックル回数も数えました。試合直後にスタッツ(統計)を出すため、徹夜することもざらにありましたね。

 私は1992年に神鋼で現役引退をした後、トレーナーをしながら、テクニカルをしていました。当時はまだそういう名称すらなかった。他チームからは「業務内容を教えてくれないか」と盛んに言われていました。

 ジャパンにテクニカルを置く、ということはそのチーム機密を外部に漏らすことになります。でも平尾さんは「日本のために。それにいつかは分かること」と惜しげもなくそのノウハウを提供しました。私は「先輩ながらさすがだな」と感じたものでした。

 ですからジャパンに加わる前に他チームの選手のクセは大体分かっていました。

 例えば主将だったアンガス(アンドリュー・マコーミック、CTB、現関西学院大ヘッドコーチ)はディフェンス時にアウトサイドの位置からインサイドに詰めるクセがありました。広瀬佳司(SO、現トヨタ自動車監督)はサインを変えない。ラインアウト時にPKをもらい、タッチキックで仕切り直した時もそのままで攻めてきました。

 そういうことを調べて、神鋼の試合で生かしていました。ジャパンではそれをベースに、選手の無意識のクセを指摘、修正したりしました。

 

 

分析は当たっているのに止められない

想像以上だったサモア代表戦

 

 テクニカルとしての最初の仕事は1998年、RWCのアジア予選で韓国と並びライバルとされていた香港の分析でした。香港で行われた試合に宮尾と行きました。格好はGパンにTシャツ。普段着で観客に紛れ込んでいました。宮尾がビデオを回し、私が画面に映らない全景を見て、サインプレー時の全選手の動きなどをチェックしました。

 お蔭で10月にシンガポールであった予選では47-7で勝つことができ、3戦全勝で本大会に進むことができました。

 RWCでは我々の分析は当たりました。

 しかし当たっていても、やってくることが分かっていても、止められなかった。手当てはしても彼らはその上を行っていました。

 例えば初戦のサモア(9-43)に関してはHOトレヴァー・レオタ、WTBパット・ラムに代表される激しいタテ突進に食い込まれてしまいました。5カ月前、花園でのパシフィックリム選手権では37-34で勝っていましたが、その時からメンバーが変わっていたこともあり、まったく別のチームでした。

 3戦目のアルゼンチン(12-33)は「キックとスクラムしかない」と結論付けました。しかし、いざ試合が始まるとSOゴンツァロ・ケサダのキックは距離、滞空時間とも長く、左PRマウリシオ・レジャルドを中心として8人で組んでくるスクラムは想像以上に強かったのです。

 

 

時間の経過で分析したサモアの傾向

それなのに、会場に時計がなかった…

 

 サモア戦は試合のあったレクサムに時計がないことも災いしました。選手たちには時間経過で相手のアタックやディフェンスを伝えていた。ところが時を伝える機械がグラウンドから見える位置になかったため、私を含め選手たちは焦りました。

 私はトレーナー登録もしてあり、ウォーターボーイとしてピッチサイドにいたため、選手から「今、何分ですか?」と頻繁に聞かれたことを覚えています。

 グラウンドレベルにいて感じたのは歓声の大きさ。2戦目のウエールズ(15-64)は新装なった相手の本拠地、ミレニアム・スタジアムでした。タッチライン際にいたパット(パティリアイ・ツイドラキ、WTB、故人)に指示が伝わらない。距離はわずか5メートルほどでしたけどね。あれの声援は本当にすごかったですね。

 結果的に私の力が及ばず、チームを勝たせることはできませんでした。

 でもテクニカルとしてジャパンで過ごした3年間、私は本当に楽しかった。人には役目とか持ち場があります。私は選手を支えることが役割だったのでしょう。今、神鋼でチーム広報をやっていますが、テクニカル同様にやりがいを感じています。

 よい経験をさせてくれたチームのみんなには今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 

Text by KATSUYA SHIZUME