村田亙

村田亙(むらた・わたる)

生年月日:1968年1月25日。福岡県出身

日本代表キャップ数:41

RWC出場歴:1991、1995、1999

ポジション:SH

 

▼ラグビー略歴:草ヶ江ヤングラガーズ→東福岡高校→専修大学→東芝府中(現東芝、1990年~1999年)→フランス・アビロンバイヨンヌ(1999年~2001年)→ヤマハ発動機(2001年~2008年)、現在は、専修大学ラグビー部監督

 FWの密集サイドを爆発的なスピードで駆け抜け、そのままぶっちぎってトライをするスクラムハーフ(SH)は、1991年のRWCで、世界をも驚かせます。その後、フランスで海外リーグでの日本人プロ選手第一号となったのも、その抜群の運動能力と誰とでも打ち解けるポジティブな性格のなせる業でした。多くのラグビーファンの強烈なインパクトを与えた村田亙さんは、RWCから何を得たのでしょう。

 

 

デカくて、速くて、強かった。

1991RWCのスコットランド戦

 

 

 私はRWCに3回出場させてもらえました。

 でもまともに出たと言えるのは1991年、最初のRWCでしょうか。この大会は3戦中1試合の出場でしたが、初戦のスコットランド戦(9-47)に先発できました。

 1995年は3戦中1試合。これは2連敗後の最終のニュージーランド(NZ)戦(17-145)。1999年は3戦中1試合。2戦目のウエールズ戦(15-64)での途中出場のみでしたからね。

 1991年のスコットランドはベスト4に入りました(準決勝でイングランドに6-9)でした。FW第3列、ジョー・ジェフリー、フィンレー・コールダー、デレク・ホワイトはデカくて、速くて、強かった。

 後半、自陣ゴール前のラインアウトで前ピール(タッチライン側のショートサイドをFWで攻めること)を使って選手が突っ込んできました。僕は抱え込んで倒し、グラウディングさせませんでした。自分としてはファインプレーだったと思っています。

 この試合はスコットランドの本拠地、マレーフィールでありました。観衆は5、6万人入っていたと思います。前半は食らいついていましたが(9-17)、後半は大声援を受けたスコットランドの怒涛(どとう)の攻めを受けました。相手のアタックが止まらなかった。FW3列以外にもHB団はゲイリー・アームストロングとクレイグ・チャーマース、CTBはスコット・ヘイスティングスとタレント揃いでした。2年前、1989年に秩父宮で初めて勝った時は1軍半。この時はバリバリの一本目。強かったですね。

 

 

宿沢さんには感謝。1991年の活躍が、

後のフランスでのプロ生活につながった

 

 当時のラインアウトはリフティングなどなく、LOの林敏之さん(現神鋼ヒューマン・クリエイト)や大八木淳史さん(現芦屋学園理事長)はトイメン(対面)と競っていました。そのためバレーボールのアタックのようなボールが飛んできました。それを僕は常にパスアウトした。出身の専大はFWが強くないチームだったので、別に違和感はありませんでした。負けはしましたが、自分としては、さばきはしっかりできたと思っています。

 最終3戦目のジンバブエ戦は1学年下の堀越正己(現立正大学ラグビー部監督)が先発しました。結果は52-8。日本はRWC唯一の白星を挙げます。この試合には出たかったなあ、と今でも思います。勝利の味をグラウンドの上で味わいたかった。当時は戦術的交代がなかったから、仕方なかったですがね。

 スコットランド戦で監督の宿澤広朗さんが早大の後輩の堀越ではなく、僕を先発させたのは、スピードなど意外性に賭けたのだと思います。RWCに入るまでキャップを1しか持っていなくって、相手に分析されていないこともありました。

 開幕戦で宿澤さんが使ってくれたお蔭で、海外での評価がつきました。リーグラグビーやスコットランドのクラブから誘われました。それが2000年、2001年と2シーズン、労働ビザをもらってフランスのアビロン・バイヨンヌでプレーする遠因になりました。

 同じポジションでもあった宿澤さんには今でも感謝しています。

 

 

ワースト記憶の1995年大会のNZ戦

チャレンジすることを教えてくれたRWC

 

 1995年のRWCは僕の中ではワーストの大会になってしまいました。第1戦のウェールズ、第2戦のアイルランドと堀越―平尾誠二さん(現神戸製鋼GM)のHB団でした。NZ戦は僕と広瀬佳司(現トヨタ自動車監督)に変わりました。「2人の時代を作ろう。やってやろう」と試合に臨みました。でも戦いになったのは最初の5分だけ。NZとは全てが違っていた。今でも残る苦い思い出です。

 スクラムから8-9(NO8からSH)で右サイドを突きましたが、あと一歩のところでFLのケビン・シューラーに止められたのを覚えています。試合後、ビデオで自分のプレーを検証したら、そんなにミスはなかった。それは救いでした。でも、ラグビーは個人競技ではありません。チームとして敗戦を認めないといけない。この後、1カ月くらいは苦しかったです。

 1999年のRWCは30歳でした。東芝府中で社会人大会や日本選手権V3を経験して、満を持しての参加でした。しかし正SHはNZ代表経験もあったグレアム・バショップ。パス、キックともに正確。相手の背後を狙うボックスキックなんか、ピンポイントで落としていました。何がうまいって、ミスをしない。彼と握手をしたら、僕の1.3倍の大きさはありました。グローブのような手でした。

 それでも第2戦のウェールズ戦では残り13分で出場させてもらえました。鳥かごに入れられていた鳥がはばたく感じで、強引にサイドに行ったりしました。会場はウェールズの本拠地、新装なったミレニアムスタジアム。7万人と満員の観衆のすごい歓声の中で試合ができたのはいい思い出です。

 この大会の1カ月後、フランスに移籍します。振り返れば、RWCは僕にとって世界にチャレンジすることを教えてくれた意味のある大きな大会でしたね。

 

Text by KATSUYA SHIZUME