IMG_0924

佐藤秀典(さとう・ひでのり)

佐藤秀典(さとう・ひでのり)

生年月日:1981年3月28日

東京都渋谷区出身

RWC参加歴:2015

ポジション:英語通訳

 

略歴:10歳のとき、母、姉と豪州ゴールドコーストに移住(1990年~1999年)。現地の高校を卒業後、帰国して雑貨店、アクセサリー店などで働きながら、バンド活動をスタート。2015年4月から日本代表通訳に就任。

 A36T3481_長岡さん写真02

 

佐藤秀典さんは、デスメタルバンド「インファーナル・リバルジョン(悪魔的憎悪)」のボーカリストでありながら、ラグビー日本代表の通訳を務めるという異色のキャリアの持ち主。その経歴は、昨年のラグビーワールドカップ2015イングランド大会でも現地で話題になりました。オーストラリアのゴールドコーストで覚えた英語は、オーストラリア育ちのエディー・ジョーンズ日本代表ヘッドコーチにとっても心地よいものだったようです。しかし、佐藤さんにとって日本代表に帯同した期間は、これまでになくタフな経験でした。その実感を伺いました。

 

音楽に専念し、一段落ついたところで

エディーさんから依頼の連絡が

 

 小学5年生の頃、母、姉とオーストラリアのゴールドコーストに移住しました。現地では、13人制のラグビーリーグが盛んで、ブリスベン・ブロンコスの大ファンでした。日本の子供が野球やサッカーを好きになるのと同じように友達もみんなリーグのファンだったし、休み時間も裸足になって、フルコンタクトでリーグをやりました。ユニオン(※)はいっさい見なかったです。だから、ワラビーズ(ユニオンのオーストラリア代表、1991年、1999年のラグビーワールドカップ優勝)のことも、まったく知りませんでした。僕の周りにはユニオンを見ている人はいなかったですね。

<※ラグビーリーグ=13人制ラグビー。日本で主に行われている15人制、7人制はラグビーユニオンと呼ばれる別のスポーツ>

 仕事としてラグビーにかかわったのは、高校卒業後に帰国して、しばらくしてからです。その時、僕はアメ村(大阪・心斎橋)でシルバーアクセサリーの販売員をしていたのですが、母が関西社会人Aリーグのワールドファイティングブルでマネージャー兼通訳を務めていました。その通訳を手伝ったのが始まりです。その後、いったん元の仕事に戻ったのですが、2003年に本格的にワールドで通訳の仕事を始めました。

 その後、ワールドは会社としての強化を停止したのですが、キヤノンイーグルスが本格的に強化をスタートさせていて、通訳として採用してもらうことになりました。

 エディー・ジョーンズさんとは、彼がサントリーサンゴリアスのコーチの頃、キヤノンとの合同合宿で出会いました。僕の英語がオーストラリアで学んだものだったので、気に入ってもらえたのか、何度も「サントリーに来い」と声をかけてもらいました。2012年に日本代表のヘッドコーチに就任してからも声をかけていただいていたのですが、キヤノンの仕事もあったので応えることができませんでした。

 通訳の仕事と並行してバンド活動は続けていました。ツアーをやりたくて、2014年にキヤノンを離れて音楽に専念することにしました。海外ツアーもやって、音楽活動が一段落していた2015年1月、エディーさんから声がかかりました。日本代表の前任の通訳スタッフが辞めることになったので、来てくれないか、ということでした。「ワールドカップイヤーで素晴らしい経験ができると思うし、勝ちたいから、やってくれないか」と。2日ほど考えたのですが、ラグビー界の通訳として頂点のチームでできるのは光栄なことですし、国を代表する仕事に就くチャンスはなかなかないですから引き受けることにしました。エディーさんが厳しい人だとは聞いていましたが、それもいい経験になるし、勉強になると思ったのです。

 

相巡業3

 

 

聞きしに勝るエディーさんの厳しさ

携帯電話は常にベッドの横に

 

 

 実際に日本代表の活動に参加してみると、エディーさんの厳しさは聞きしに勝るものでした。通訳業務だけではなく、パーソナルアシスタントとしても、一瞬たりとも気が抜けませんでした。一番高いプロのレベルを要求され続けるのです。

 コーチのミーティングや、選手とのミーティング、取材の通訳の他、資料を揃える仕事もありました。エディーさんは、メールなどの資料はプリントアウトして読みたい人なので、すべて印刷して渡していました。情報収集も怠らない人なので、他競技のトレーニングで参考になるものがあれば、海外からその資料を送ってもらう。プリントアウトは膨大な量になります。また、エディーさんは資料を手書きで作ります。それを写メで送ってくれるのですが、字が見えにくいところは拡大して解読し、それをデータに打ち直すという仕事もありました。

 エディーさんは、毎朝4時半か5時には起きます。眠るのは夜12時過ぎ。通訳者はその間の活動には常に帯同します。離れていても電話が鳴りやみませんでした。毎日4、5時間は眠れるのですが、夜中も指示があるので電話は常にベッドの横に置いていました。1カ月ほどで目覚まし時計がなくても朝5時前には起きるようになりました。

 

 

IMG_0942

 

 エディーさんの英語は、オーストラリアの中でもクインズランド訛りが強く、ゴールドコーストで育った自分にとっては分かりやすかったです。通訳をしていて思うのは、英語力も大事ですが、その国の文化を理解していることが大事ですね。綺麗な言葉を話すよりも、関西弁で「まいど!」と話した方が関西人にとっては親近感がわきますよね。

 エディーさんの言うことはストレートなので翻訳に困ることはありません。ただ、英語と日本語を交互に使うのと、こちらが訳す時間をあけてくれないので、そこは難しかったです。かなり日本語が分かっているだけに誤解を受けることもありました。ライターのことを「作家」と言ったのに、「サッカーの話じゃない!」なんてことも(笑)。

 エディーさんは、選手達を奮い立たせる言葉とか、日本人の心を揺さぶることを常に考え、日本語のキーワードにはこだわっていましたね。その中で「サムライ・アイズ」、「ニンジャ・ボディ」とった言葉が出てきたのですが、宮本武蔵や坂本竜馬を題材にして伝えようとしても、今の日本人には響かないですよね。このあたりを伝えるのも難しかったです。エディーさんが偉いのは、できるだけ自分の言葉で選手に伝えようとしていたことです。試合前のスピーチには気を使っていて、「キーワードと、簡単な文章を日本語で書いてくれ」と言われ、ローマ字でスピーチを準備することもありました。

 

image3

 

ずっとウルウルしていた指揮官の瞳

成功するためには尋常ではダメ

 

 

 RWC2015イングランド大会の期間中はさらに緊張感が高まりました。試合中はエディーさんの指示を他のスタッフなどに伝える仕事がありますので、じっくりとみんなの様子を見ることはないのですが、南アフリカ戦のときのエディーさんはいつもと違いました。

 スタッフはコーチングボックスにいて、僕とエディーさんだけはバルコニー席で見ていました。エディーさんの目は、ずっとウルウルしていました。横からつついたら泣きそうな感じです。やっとここまで来て、目の前で選手達が練習通りのプレーをしてくれている。それで感情が昂ったのだと思います。試合前のロッカールームでスピーチしたときも、目は潤んでいました。

 最後のPKでスクラムを選択したときは、怒鳴っていましたね。「なんでスクラムなんだ、ちゃんと伝えたのか」と。でも、勝った瞬間はハイタッチ(笑)。「夢みたいだな」って言っていました。

 僕自身は半年しか関わらなかったのですが、選手達はこれまでやってきたことをすべて出して戦っていたし、すごいなって思いました。ただし、南アフリカに勝った後は、喜びをかみしめるというよりも、さらにすごい日々が始まるんだという覚悟を決めることで精いっぱいでした。実際にこれまで以上の緊迫感が最後のアメリカ戦まで続くことになりました。

 ずっと緊張していたので、終わった時は「ほんとに終わったの?」と半信半疑になるほどでした。

 

image2

 

 エディーさんと仕事をしてみて感じたのは、成功するには尋常ではダメだということです。エディーさんは、仕事ではものすごく厳しいのですが、オフのところでは優しいおじさんです。2人で一緒に食事をするときは、いろんな話を聞かせてくれました。

  「誰に何と言われようと自分の信念を強く持って、プランを立て、突き進めばいい。失敗を恐れたら成功しない。自分が成功するために必要な事や物は、どんなに嫌な顔をされようが要求し続けろ。遠慮していたら成功しないぞ」と言われました。エディーさんは、その通りやる人でしたね。自分も信念をもっと強く持とうと思いました。

 今回いろんな経験を積むことができましたので、日本代表の通訳は、やらせてもらえる限り、2019年まで続けたいです。通訳を派遣する会社を立ち上げましたので、ラグビーの通訳も育てていきたいし、それをスポーツ全般の通訳にも広げていきたいと思っています。

 

 

TEXT by KOICHI MURAKAMI

 

IMG_0886